2009年06月16日

花粉が肉眼で見ることができないこともあって

花粉症がいつ頃出現したかについては、花粉が肉眼で見ることができないこともあって明確には判っていない。紀元前500年ごろのヒポクラテスの著書『空気、水、場所について』の第三節にさまざまな風土病が述べられているが、季節と風に関係しており、体質が影響し、転地療養が効果的であるということから、現在でいうアレルギー(季節的アレルギー)の機序を考えてよさそうなもの、すなわち現在でいう花粉症もあるかもしれないとの考えもある。ローマ帝国時代の医師ガレヌス(紀元前130年?200年)も花粉症らしい疾患について述べており、紀元前100年ごろの中国の記録にも、春になると鼻水および鼻詰まりがよくあるとのことが示されているという。西暦1000年ごろのアラビアの医師によって、花粉症らしい疾患とその治療法が記録されているともいわれる。[要出典]

より近代医学的な記録で最古のものは、1565年(一説には1533年)のイタリアの医師 Leonardo Botallus によるものとされる。「バラ熱(Rose cold または Rose fever)」と呼ばれる症状で、記録によれば、その患者はバラの花の香りをかぐとくしゃみやかゆみ、頭痛などの症状をおこすという。原則的にバラは花粉を飛散させないため、花粉症であるとは言い難いが、現在でも Rose fever は「晩春から初夏の鼻炎」様の意味で Hay fever 同様に用いられることがある。

花粉症であることが確かな最初の臨床記録は、1819年にイギリスの John Bostock が、春・秋の鼻症状、喘息、流涙など、牧草の干し草と接触することで発症すると考えられていた Hay fever と呼ばれる夏風邪様症状について報告したものである。彼自身も長年にわたって症状に苦しめられたというが、有効な治療法は発見できなかったという。彼は最初これを夏季カタルと呼んだ。発熱(fever)は主要な症状ではないので、粘膜の炎症を示すカタルの方が適切ではあった。この報告の後しばらくの間、この症状は「Bostockのカタル」と呼ばれたと言われる(なお、 Hay fever は枯草熱と訳されているが、字義通りに解釈するのであれば、干し草熱とした方が適切であった。Hay とはイネ科の牧草 grass の干し草を指すからである)。1831年には同じくイギリスの J.Elliotson により、証明はなされなかったが花粉が原因であろうとの推定がなされた。そして1872年、北アメリカでブタクサが Hay fever の原因であるという報告がなされた。ブタクサは Hay ではないが、その当時すでに Hay fever という名称は定着していたと考えられる。
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その後、イギリスの Charles H. Blackley によって、 Hay fever は気温の変化あるいは花粉が発する刺激性のにおいや毒素などが原因とする考えが、実験的に否定された。彼は空中花粉の測定、鼻誘発試験や皮膚試験など、現在でも通用する試験を行ってイネ科花粉症を実証し、遅発相反応にさえ言及した著書『枯草熱あるいは枯草喘息の病因の実験的研究』を1873年に著した。これにより Hay fever は Pollinosis (花粉症)と呼ばれるようになった( pollen は花粉のこと)。これらのことから、自らも花粉症であった Blackley は花粉症の父と呼ばれている。しかし、アレルギーという概念が成立するには20世紀になるまで待たなければいけなかったため、この段階では花粉に過敏に反応する人とそうでない人がいるということしか分からなかった。

2009年05月30日

新政府側の強硬論と寛典論

新政府側でも徳川家(特に前将軍慶喜)に対して厳しい処分を断行すべきとする強硬論と、長引く内紛や過酷な処分は国益に反するとして穏当な処分で済ませようとする寛典論の両論が存在した。薩摩藩の西郷隆盛などは強硬論であり、大久保利通宛ての書状などで慶喜の切腹を断固求める旨を訴えていた[8]。大久保も同様に慶喜が謹慎したくらいで赦すのはもってのほかであると考えていた節が見られる[9]。このように、東征軍の目的は単に江戸城の奪取のみに留まらず、徳川慶喜(およびそれに加担した松平容保・松平定敬)への処罰、および徳川家の存廃と常にセットとして語られるべき問題であった。

一方、長州藩の木戸孝允・広沢真臣らは徳川慶喜個人に対しては寛典論を想定していた。また公議政体派の山内容堂・松平春嶽・伊達宗城(前宇和島藩主)ら諸侯も、心情的にまだ慶喜への親近感もあり、慶喜の死罪および徳川家改易などの厳罰には反対していた。
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新政府はすでに東海道・東山道・北陸道の三道から江戸を攻撃すべく、正月5日には橋本実梁を東海道鎮撫総督に、同9日には岩倉具定を東山道鎮撫総督に、高倉永祜を北陸道鎮撫総督に任命して出撃させていたが、2月6日天皇親征の方針が決まると、それまでの東海道・東山道・北陸道鎮撫総督は先鋒総督兼鎮撫使に改称された。2月9日には有栖川宮熾仁親王が東征大総督に任命される。先の鎮撫使はすべて大総督府の下に組み入れられた上、東征大総督には江戸城・徳川家の件のみならず東日本に関わる裁量のほぼ全権が与えられた。東征大総督府参謀には、正親町公董・西四辻公業(公家)・広沢真臣(長州)が任じられたが、寛典論の広沢は12日に辞退し、代わって14日強硬派の西郷隆盛(薩摩)と林通顕(宇和島)が補任された。2月15日、東征大総督は京都を進発して東下を開始し、3月5日には駿府に到着。翌日には江戸城総攻撃の日付が3月15日と決定された。

2009年04月27日

比較して定型化された

従来に比較して定型化された1943年型と呼ばれる師団編成が規定された。2個大隊からなる1個戦車連隊及び2個装甲擲弾兵連隊が基幹となった(この頃からドイツ軍では歩兵のことを擲弾兵と呼ぶようになり、装甲部隊に付属する歩兵部隊は装甲擲弾兵と呼ばれるようになった)。その他の支援部隊は装甲砲兵連隊・装甲偵察大隊・戦車駆逐大隊・装甲工兵大隊・高射砲大隊等であった。ただし師団によっては一部の支援部隊を持たないケースも見られた。

武装親衛隊においても名実共に装甲師団が編成されるようになった(従来は内容は装甲師団同様でも装甲擲弾兵師団と呼ばれていた)。国防軍の装甲師団と比較して、装甲擲弾兵連隊が3個大隊編成であることが主な相違点である。また一部の師団は突撃砲大隊や重戦車中隊も保有していた。1943年10月22日付けでライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー、ダス・ライヒ、トーテンコープ、ヴィーキング、ホーエンシュタウフェン、フルンツベルク、ヒトラーユーゲントの各SS装甲擲弾兵師団が第1SS・第2SS・第3SS・第5SS・第9SS・第10SS、第12SSの装甲師団に改称されている。

陸軍一のエリート師団であるグロースドイッチュラント装甲擲弾兵師団も連隊規模の戦車部隊を装備して実質上は装甲師団となった。

空軍のヘルマン・ゲーリング師団が正式に装甲師団となった。1944年1月6日にはヘルマン・ゲーリング降下装甲師団に改名される。

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ティーガー戦車の量産が本格化したが生産数は少なく、運用上の問題もあって一部のエリート師団を除いて装甲師団の編成には含まれず、大隊規模の重戦車部隊が組織された。
生産が始まったパンター戦車は装甲師団の主力として各戦車連隊の第1大隊に配備されることとなったが全ての師団において改編が行われたわけではなかった。III号戦車に代わって主力戦車となっていた IV号戦車は第2大隊に配備されることになった。
II号戦車やチェコ製の38(t)などの戦車としては使用に耐えない車輌は自走砲に改造され、長砲身化された突撃砲と共に戦車駆逐部隊が組織された。III号戦車の車台は突撃砲用としてのみ生産が続けられた。
フンメル・ヴェスペの実用化に伴い、砲兵部隊の一部が自走砲に変わった。
ソ連軍との戦闘で大損害を受け、戦力を失っていた第22装甲師団は1943年4月6日、第27装甲師団は1943年2月9日にそれぞれ解隊された。
アフリカで壊滅した第21装甲師団が1943年7月15日に再編された。なお同じくアフリカで壊滅した第10装甲師団は再編されず、再編された第15装甲師団は第15装甲擲弾兵師団に改編された。
1943年9月22日にノルウェイにてノルヴェーゲン装甲師団が編成された。
クルスクの戦いで大損害を受けた第18装甲師団は1943年10月19日に第18砲兵師団へと改編され、姿を消した。

2009年04月10日

ビウエラ (古楽器)

ビウエラ (古楽器)はルネサンス期のイベリア半島、イタリアの一部と中南米で用いられた弦楽器。今日、単にビウエラと言えば、ビウエラ・デ・マーノと呼ばれる、ギターに類似した形状で6コースの複弦を持つ撥弦楽器を指す。

スペイン語の「ビウエラ vihuela」は、イタリア語やポルトガル語では、「ヴィオラ viola」となるので、「ビウエラ」と「ヴィオラ」は語源学上ほぼ等価な単語である。したがって、「ヴィオラ」と同様、当時「ビウエラ」が指し示す楽器の範囲はかなり広く、撥弦楽器から擦弦楽器に至るまで、種々の楽器がビウエラと呼ばれていた。 以下に主要なビウエラの種類を示す。

ビウエラ・デ・マーノ Vihuela de Mano(手のビウエラ) - 撥弦楽器(6コース)、指頭により演奏
ビウエラ・デ・プエブロ Vihuela de Pueblo(人々の) - 撥弦楽器(4コース)、指頭により演奏
ビウエラ・デ・プレクトロ Vihuela de Plectro(プレクトルムの) - 撥弦楽器、プレクトルムにより演奏
ビウエラ・デ・アルコ Vihuela de Arco(弓の) - 擦弦楽器
擦弦楽器であるビウエラ・デ・アルコがヴィオラ・ダ・ガンバの祖先と見なせることから、「ビウエラ」一般とヴィオール族は楽器学上も同一系譜上にあるといえる。

今日「ビウエラ」はビウエラ・デ・マーノを指して用いられる傾向にある。以下でも単にビウエラといえば、ビウエラ・デ・マーノのことを指すものとする。

ビウエラ=ヴィオラの名が冠される楽器は中世のフィドル fiddle (ビエール Vielle)を祖先に持つ楽器と思われ、ビウエラ(ビウエラ・デ・マーノ)もその系譜の中に属する。ビウエラ Vihuela に関する最初の文献中での記述は、15世紀のアラゴン王国において見られる。16世紀になるとルイス・デ・ミランの1536年の曲集 Libro de música de vihuela de mano intitulado El maestro に始まり、多くのビウエラ用曲集が出版された。歴史文献に「ビウエラ」がしばしば現れることなどからも、スペイン・ポルトガルと、その支配下にあったシチリア、ナポリ、中南米でかなり広く使われたものと思われる。

ルイス・デ・ミランの曲集 El maestro にはビウエラを弾くオルフェウスの挿し絵がある(右図)。絵の周囲の文章は、オルフェウスをビウエラの発明者としてたたえる内容になっている(画像詳細ページ参照)。また、ミゲル・デ・フエンリャーナのビウエラ曲集のタイトルは Orphenica lyra(オルフェウスのリラ)となっている。このことから、当時スペイン文化圏ではビウエラはギリシア神話に登場し、音楽の神としばしば混同されるオルフェウスの楽器、リラと同一視されており、重要な楽器と見なされていたことが想像できる。秀逸なレパートリーが数多く残されていることなどからも16世紀にはビウエラが隆盛を極めただろうことが容易に想像できる。

その一方で、スペイン文化圏ではリュートはほとんど用いられることがなかったと言われる。これは、レコンキスタで長年モーロ人(イベリア半島におけるイスラム教徒)と対峙し、キリスト教への信仰心も熱烈だったスペインではリュートが中東起源の「モーロ人の楽器」と見なされていたという独特の事情によるものと思われる。ビウエラとリュートは調弦が同じであったことから多くのレパートリーを共有しているが、楽器学上これらがどのような関係なのかは判然としない。一方で、ギターとは強い近親関係にあったとおもわれる。

17世紀に入って大航海時代以来のスペインの覇権が衰えるのと期を一にして急激に衰退し、一部はギターに改造されるなどして姿を消した。

実際の楽器 [編集]
このように、出版楽譜や文字資料によって、「ビウエラ」という楽器が存在し、頻繁に演奏されていたであろうことには疑いの余地は無いが、では、実際どのような楽器が「ビウエラ」であったのかを考えると、大きな謎にぶち当たることになる。

その原因は、今日まで残されている「ビウエラ」の数が極端に少ないことにある。16世紀に制作されたビウエラであると信じられている楽器は、現在、世界に3つ知られているのみである。そのうち2つはフランスの博物館にあり、残りの1つはエクアドルで発見されたものであるが、これらの楽器がボディの形状や弦長などそれぞれ互いに異なる構造上の特徴を備えていることから、ビウエラが何であったか、すなわち、ビウエラという楽器を定義する製造上、設計上の特徴が何であったのかについてははっきりとしない。たとえば、3つのオリジナル楽器および文献や図像から、ビウエラの形状および構造はギターとほぼ同じだったといえる。その一方で、出版されたタブラチュアによれば、ビウエラは同時代のルネサンスリュートと同様6コースを持ち、調弦も通常はルネサンスリュートと同様、高いほうから4度、4度、3度、4度、4度の調弦であったことがわかる(同時代のギターは通常4コースまたは5コースの楽器であった)。また、リュートやギターとの比較により、ビウエラも複弦(すなわち、2つの弦を一組にして、これらをユニゾンまたはオクターブで調弦する)を持っていただろうと思われる。しかし、コース数以外の細かい点でギターとどのような違いがあったのか、あるいはなかったのかなどについて、決定的な意見は提示されていない。

レオソーム ガードマン ドアマット おぜいゆ ウォッチ チュール ハシェマ タンギ シラン 手をつなご チュウゴ ブルーボ マンダ 散歩道 アカマツ 弾丸ファ スキーマ ロック マコロ 陽炎 長徳国内 セーフ ヒストン マナー プリーナ ルベリー レポオペ ゲエゲア ナンセン ジーンズ プレパレ マスト チェリー ペック ふき小松 トモグラ ショート とうげ シボレー トランジス じくど タッピ そうあん クーペ カタカナ ドラセナ シンバル ぞうげ すうぃ? プログ


2009年03月27日

心身問題に対する一元論の解答

二元論とは対照的に,一元論は、唯一の基礎的実体だけが存在すると主張する。今日、西洋哲学において最も広く受け入れられている一元論は物理主義(Physicalism)である。[9] 物理主義的な一元論は、物理的な実体だけが唯一存在していており、我々の科学が最もよくその性質を明らかにする,と主張する。[31] しかし、物理主義といえども、その定式化は多様なものであり得る(下記を参照)。

一元論のもうひとつの形態は観念論(唯心論)である。これは存在する唯一の実体は精神的なものであると主張する。これは現在の西洋哲学においては一般的ではない立場である。[9]

現象主義は、外的対象の表象(あるいはセンス・データ)が存在するもののすべてである、とする理論である。この考え方は、20世紀初頭、バートランド・ラッセルや多くの論理実証主義者が一時的に採用したものである。[32]

第三の可能性は、存在するのは物質的でも精神的でもない何かである、という考えである。精神的なものも、物質的なものも、両方ともこの中立的な実体のもつ性質であるということになる。この立場は、スピノザが採用し、[8] 19世紀になってエルンスト・マッハによって広まったものである。[33] こうした中立的一元論は、いわゆる性質二元論(Property dualism)に似ている。

物理主義的一元論 [編集]

行動主義 [編集]

行動主義は、20世紀の大半、特にその前半において、隆盛を極めた心の哲学である。[9] 心理学において、行動主義は内観主義の欠点に対する反動として発達した。[31]

自分自身の内的な心的生活についての内観的報告は正確になるように丁寧に吟味されているわけではなく、予測的一般化を形成する上では利用できない。一般化や三人称的吟味の可能性なしには心理学は科学になりえない、と行動主義者は言う。[31]したがって、そこから抜け出すには、内的な心的生活という考え方(ということはつまり存在論的に独立なものとしての心)を消去して、そのかわりに観察可能な行動の記述に完全に集中することである。[34]

心理学におけるこうした展開と並行的に、ある種の哲学的行動主義(「論理行動主義」と呼ばれることもある)も展開された。[31]この立場は強力な検証主義に特徴づけられているのだが、検証主義によれば内的な心的生活に関する検証不能な言明は無意味だと一般に考えられる。行動主義者にとっては心的状態は内観的報告ができるような内的状態ではない。心的状態とは行動ないしある仕方で行動する性向の記述にすぎず、他人の行動を説明したり予測したりするために第三者によってなされるものである。[35]

哲学的行動主義は、ウィトゲンシュタインが支持していたことで知られるが、20世紀の後半以来、認知主義の興隆と同時に支持を失っていった。[17]認知主義は行動主義のいくつかの問題点を認識して行動主義を否定した。たとえば、行動主義は、ある人がひどい頭痛を経験しているという出来事について誰かが語るときに、その人の行動について話していることになる、という点で直観に反する主張をしていると言える。

ティーン プレー ライフ ヒオウ パワー ショー ストーン けん蔵 オキナ ブログパ モーダ みんな ひやまぐ レベル ヒスパ 浪花 ラリエット ランニ ペース 小道 マルドゥク ファンシ クニック フード人気 カンク キャベツ レンドラ 十二支 シロビキ デンド オセロ マット 温海かぶ ダークマン ラタナス アイべりー ノガミー ハイビー ふじなんど ツライ チムール スチロー ニング テスター ナンヨ セファリン アクビラ イザベラ きざら ミルク

2009年03月11日

ウシュマル (Uxmal)

ウシュマル (Uxmal) は、メキシコ、ユカタン州にある古典期後期から後古典期のマヤ文明の遺跡。

メリダの南方78kmの地点にあり、カンペチェへ向かうメキシコの高速自動車国道261号線で、メリダから110kmの地点にある。ウシュマルという地名は、オシュ=マハアルと発音されたと考えられ、マヤ語の研究者の間でその由来について論争があるが、コロンブス到着以前の古いマヤ語の名称と考えられ、「三度にわたって建てられた町」という意味である(cf.カラコルの旧名「オシュ=ウィツア」を見よ)。

多くの観光客の目的地となるためにウシュマルの建造物の整備や復元にたくさんの労力が注がれる一方で、細々とであるが真摯な考古学的な発掘調査や研究がなされてきた。この都市の占地が行われた時代はよくわかっていないが、人口は、現時点では概算で2万5千人ほどと推定されている。ただし、あくまでも非常に大づかみな推定であるため、より詳細なデータによって見直されることが望まれる。 今日目にすることのできる大多数の建造物は、だいたい紀元700年から1100年の間に建てられたものである。

マヤの年代記によれば、ウシュマルは、フン=ウィツィル=トゥトゥル=シウによって紀元500年に建てられた町であるという。ウシュマルは何代にもわたってシウ家によって支配され、ユカタン西部でもっとも強力な都市であった。そしてチチェン・イッツアと同盟を結んで北部ユカタン全域を支配していた。紀元1200年以降は主要な建築物を新たに建築することは行われなくなる。このことは、ウシュマルと同盟者チチェン・イッツアの衰退とマヤパンへユカタンの権力が移っていく過程と関係しているとおもわれる。 シウ家が、マニへ首都を移すとともに、ウシュマルの人口は減少していった。

スペインによる征服後、シウ家自身は、スペインの同盟者となったが、初期植民地時代の記録によると、ウシュマルは、1550年代までは、ある程度の数の人々が住む重要な場所であったが、そこにスペイン風の町が建てられることはなくやがてウシュマルは放棄されることとなった。
マンモ チンク クンツ きうい ゆうばり イタリティ スペーサー パーラー デモリ スカス タブレット リターン シーシー レーター ロマンス ゲストハ トレー ハンガリー シャツト スペシャル ゼロ クランド オービ ミオーダー ヒュウ ドロー ディガン ほわい レッド ニュー キュラー つきだて 大化の改新 きくもん ブマリン トルコ サーキッ ローカル フォア ケヤキ フェイス ビッグ トリロジー キット 森の小人 レジン パンタロン リクル ストーリ デージ

ウシュマルの復元作業は、建物が通常より良好に残っていたおかげで他の多くのマヤ遺跡よりも良い条件で行うことができた。建物によく使われる漆喰のツナギを使用しないで精巧に切り取られた切り石を使用して建てられている。ウシュマルにある建造物は、優雅さと美しさにおいてパレンケの建造物に匹敵するものである。ウシュマルにおいては、その前半の時期においては、その大部分がプウク式の建物である。保存状態が良好であるため、一般の観光客にも当時のウシュマルの祭祀センターの様子をほぼ完全な形で想像させることのできる数少ないマヤ遺跡のひとつとなっている。

よく知られている著名な建造物は下記のとおりである。

総督の館
壮大な基壇の上に長いがそれほど高くない建造物が建てられている。これは、コロンブス到着以前のメソアメリカでは、最長の外観をほこる建造物である。
魔法使いのピラミッド
いくつかの点で通常ではない良好な状態の建造物である。ピラミッドを構成する何層かの基壇は、メソアメリカでは通常長方形に造られる基壇を卵型に造っている。メソアメリカでは、通常古い神殿ピラミッドの上にかぶせて新しい神殿ピラミッドを築くが、古いピラミッドの中央よりわずかに東に偏って新しいピラミッドを築いている。そのため、古いピラミッドの西側部分は保護されてその上に二度と新しい建物が築かれることはなかった。
尼僧院
内面と外面に精巧で美しい彫刻が施されたウシュマルにあるいくつかの中庭を方形の回廊状に囲む良好に残された建造物の中でもっともすばらしい建物である。なお、尼僧院とはスペイン人によってつけられたあだ名で、実際には支配者の宮殿と考えられる。
大球戯場
メソアメリカ独特の球戯が行われた場所で、901年にチャン=チャク=カクナル=アハウという王によって奉献されたという銘文が刻まれている。
ウシュマルには、ほかにも注目すべき建物や多くの神殿ピラミッド、方形回廊状建物や記念碑、埋まったまま保存されている建物がある。

マヤ文字が刻まれた銘文の多くは、一連の石碑に刻まれているが、一つの神殿に対になるようにグループになっているわけではない。この石碑に刻まれているのは歴代のウシュマルの王たちである。また石碑は、たおれかかっていたり、ばらばらに壊れそうな兆候を示しているので、建て直したり修復したりする必要がある。

近世以降
ウシュマルは、メリダからそう遠くないカンペチェへ向かう道路沿いにあるので、メキシコ独立以来多くの見物者が訪れた。1838年にジャン=フレデリック・ワルデック伯爵が、この遺跡について詳細な記録を初めて出版している。ジョン・ロイド・スティヴンズとフレデリック・キャザウッドは、1840年代に二度にわたってウシュマルを訪れ、建築家であり画家であったキャザウッドは、この古代都市の建造物がかってどのように建てられていたかわかるくらいの多くのプランやスケッチを報告する予定であったかのように詳細に描いたが不幸なことに現在その大部分は失われている。シルヴァヌス・モーレイは、1909年に、以前にはいくつか見落とされてきた建造物を含めてウシュマルの地図を作成した。

2009年02月23日

潮州語

潮州語(ちょうしゅうご、中国語 潮州? Cháozhōuhuà、潮汕? Cháoshànhuà、英語 Teochew、Chaozhou dialect)は、中国語の方言のひとつで、閩南語(ミンナン語)の下位方言。中国広東省東部の汕頭市、潮州市などの地域とタイ、マレーシア、シンガポールなどの東南アジアに話者が多い。
潮州語は、潮州語では「潮州話 ティオチウウエ Dio7 ziu1 uê7」または「潮汕話 ティオスアウエ Dio7 suan1 uê7」という。主に中国広東省東部に位置する潮州、汕頭(スワトウ)周辺地区の人と、タイ、マレーシア、シンガポールなど、東南アジア各国の華僑、華人が使用している。この方言のもっとも標準的とされる地区は、従来は歴史的に文化の中心地である潮州にあったので「潮州語」という名で知られているが、現在は沿岸地域にあり経済力の高い汕頭に移っているため、中国では両者を合わせて「潮汕話」と呼ばれることが増えている。
くさずり ピーエ ヒロイ 翼を広げて ソーセージ ピータ シプレ ハサップ オット ラビア ジョイ サザンカ 建久お スノー ロシア スマク ハッピー フレイン さけかす ストリーム ドザーサイ グアム 白龍支 イーシー ソート ティング マシンガン コンタ レンズ プリクラ くす最新 ジャス ヤマイモ ワンパタハ 空の庭 ビックス フリーフ フレーム タグトゥ ライダー キネシス テキサ らくがん イーユー マイア バチカン フォトレ ディナー いしけんご ハクビ

潮州語は厦門語、台湾語、海南語などと同じく、閩南語(ミンナンご)に属する。これらと比べると、主に発音にある程度の差があり、厦門語などの話者は、聞き慣れないと互いに聞いて理解するのには苦労するが、語彙や文法はかなり共通しているため、ある程度の意志疎通は可能である。

閩語など他の南方方言同様に、語彙や発音に古漢語を多く残している。これは、秦代以降、戦乱を逃れたり、兵士として派遣されてきた人たちが集団で中原から移住した結果によるものと考えられている。同時に、もともと住んでいた越人の言葉からも発音や語彙の影響を受けていると考えられ、閩語共通の語彙や潮州語独特の語彙もある。

広東省の潮汕地区の潮州語は発音の違いなどによって、更に3つの下位グループに分けることができる。行政地域別に記すと次の通りとなる。各地域で、発音に多少の違いがあるが、意志の疎通は容易である。

汕頭グループ - 汕頭市(金平区、龍湖区、濠江区、澄海区、南澳県)、潮州市(湘橋区、潮安県、饒平県)、掲陽市(掲東県、掲西県、
潮普グループ - 汕頭市(潮陽区、潮南区)、掲陽市(普寧市、恵来県)
陸海豊グループ - 汕尾市(陸豊市、海豊県、陸河県)
グループ内部においても声調などの発音の差がある。汕頭市内でも達濠では独特の子音や声調を持つ言葉が話されているような例もある。

使用状況
上記の広東省の潮州語地域において、地元民同士の日常会話は潮州語で行われるのが普通である。公的な場面や公共放送においては、普通話が使われ、教育も普通話で行われるので、基本的に潮州語話者は普通話とのバイリンガルである。

広東電視台の衛星放送や、地元のテレビ、ラジオ放送では潮州語の番組がある。国外の短波放送、インターネット放送でも潮州語の番組を用意している例がある。

地方劇である潮劇は潮州語で行われる。潮州地区やマレーシアの歌謡曲には潮州語で歌っているものがある。

汕頭市内を走るバスの自動アナウンスは、普通話の次に潮州語で放送される。

歴史
潮州、汕頭、掲陽、汕尾は、秦代以降広東省と同じ行政地区にあるが、それ以前は現在の福建省と同じく閩越の地であり、厦門、漳州などの閩南祖語を話す人たちが住んでいたと考えられる。

広東に編入されたことによって広東語の影響を受け、また、北に広がる客家語を話す人たちとの接触が続き、福建との一定の隔絶があった結果、独自の語彙、発音を持つ方言となったと考えられる。

また、潮州、汕頭地区から東南アジア諸国へは古くから移民を出しており、特に19世紀以降タイ、シンガポール、マレーシアを中心に多くの移民が出た。タイの華僑社会、マレーシアの一部地域では潮州語話者が人口面や経済面での優勢を占め、現地のタイ語、マレーシア語などにも被借用語が出るなどの影響を与えた。


[編集] 発音
潮州語の音節は、他の中国語同様に声母(語頭子音)、韻母、声調に分ける事ができる。


[編集] 声母
潮州語の声母表 両唇音 歯茎音 軟口蓋音 咽頭音
鼻音 m [m] 馬 n [n] 拿 ng [ŋ] 牙
閉鎖音 有声無気音 bh [b] 肉 gh [g] 餓
無声無気音 b [p] 巴 d [t] 打 g [k] 膠
無声有気音 p [p?] 拍 t [t?] 塔 k [k?] 脚
摩擦音 s [s] 砂 h [h] 孝
破擦音 有声無気音 r [dz] 熱
無声無気音 z [ts] 渣
無声有気音 c [ts?] 炒
側音 l [l] 拉

他に0子音が有り、全部で18種となる。表中の各項目は広東省教育部門のローマ字表記、IPA、例字の順に対照させてある。

韻母
潮州語の韻母表          0     -n [-?]   -m [-m]   -ng [-ŋ]   -h [-?]   -b [-p?]   -g [-k?] 
0 a [a] 亞 an [ã] 噯 am [am] 庵 ang [aŋ] 按 ah [a?] 鴨 ab [ap?] 盒 ag [ak?] 惡
i- [i-] ia [ia] 呀 ian [ĩã] 營 iam [iam] 淹 iang [iaŋ] 央 iah [ia?] 益 iab [iap?] 圧 iag [iak?] 躍
u- [u-] ua [ua] 娃 uan [ũã] 鞍 uam [uam] 凡 uang [uaŋ] 汪 uah [ua?] 活 uab [uap?] 法 uag [uak?] 獲
0 ê [e] 唖 ên [?] 楹 êng [eŋ] 英 êh [e?] 厄 êg [ek?] 液
i- [i-] (iê [ie] 腰) (iên [ĩ?] 羊) (iêng [ieŋ] 焉) (iêg [iek?] 噎)
u- [u-] uê [ue] 鍋 uên [ũ?] 横 (uêng [ueŋ] 冤) uêh [ue?] 劃 (uêg [uek?] 越)
0 o [o] 窩 ong [oŋ] 翁 oh [o?] 学 og [ok?] 屋
i- [i-] io [io] 腰 ion [ĩõ] 羊 iong [ioŋ] 雍 ioh [io?] 約 iog [iok?] 育
0 u [u] 汚 ung [uŋ] 温 ug [uk?] 熨
i- [i-] iu [iu] 憂 iun [ĩũ] 幼
0 i [i] 衣 in [ĩ] 丸 im [im] 音 ing [iŋ] 因 ih [i?] 裂 ib [ip?] 邑 ig [ik?] 乙
u- [u] ui [ui] 威 uin [ũĩ] 畏
0 e [?] 余 en [??] 秧 eng [?ŋ] 恩 eg [?k?] 乞
0 ai [ai] 哀 ain [ãĩ] 愛
u- [u-] uai [uai] 歪 uain [ũãĩ] 果
0 oi [oi] 鞋 oin [õĩ] 閑 oih [oi?] 狭
0 ao [ao] 欧 aon [ãõ] 好 aoh [ao?] 樂
0 ou [ou] 烏 oun [õũ] 虎
i- [i-] iou [iou] 夭
0 m [m] 唔 ng [ŋ] 黄 ngh [ŋ?] ?

声調
潮州語は、他の中国語と同様に声調言語であり、8つの声調をもつ。

潮州語(汕頭)の声調表 声調番号 声調名 声調パターン 原調値 前変調値 後変調値 備考
第1声 陰平声 中平調 33 33 31 潮州の後変調値は23
第2声 陰上声 高降調 53 24 213 潮州の後変調値は24
第3声 陰去声 低降調 213 55 31 潮州の後変調値は53
第4声 陰入声 低促調 2 5 2 潮州は低めの1及び4
第5声 陽平声 高平調 55 31 31 潮州の後変調値は213
第6声 陽上声 高昇調 35 31 31 潮州の変調値は21
第7声 陽去声 低平調 31 31 31 潮州は原調11、変調12
第8声 陽入声 高促調 5 2 2

ここで示した調値は5度式であり、5が最も高く、1が最も低いことを表す。

潮州語は、他の閩語同様に、声調変化が激しい言語である。 原調は単音節の語彙を単独にいう場合に見られる声調。単音節語でも目的語になった時など、文中においては変調が起こる場合がある。前変調は、後ろに別の音節が付いた場合に変化するもので、後の音節は原調のままとなる。後変調は、前に別の音節が付いた場合に変化するもので、前の音節は原調のままとなる。前変調となるか、後変調となるかは、語彙によって異なり、不規則である。また、3音節の場合は、前変調+原調+後変調という変化をする例もある。

白文異読
潮州語は、他の閩語同様に、一つの漢字かつ同じ意味で、文読と白読という、別の読み方を持つ字が多い。

漢字 : 文読: 白読
兩 : liang2 : no6
三 : sam1 : san1
浴 : iog8 : êg8

訓読
潮州語は、台湾語などと同様に、漢字の字義に合う別の語彙を訓読によって記す例がある。

漢字 : 音読: 訓読
一 : ig4 : zêg8

合音
もともと2音節以上の語彙が合体して1音節で発音される例がある。

合音 : 語源 : 意味
riap8 : 二 ri7 + 十 zab8 : 20
mi6 : 唔 m6 + 是 si6 : …ではない

語彙
語彙の共通性
潮州語の語彙は、漢語共通の現代語彙を除くと、閩語、特に閩南語と共通する形態素をもつものが多い。これらの閩語共通の語彙には、漢語の古語も含まれるが、非漢語系の語彙も少なくないとみられ、古来の漢字で表すのが難しく、仮借(当て字)や方言字の考案によって漢字化しているものもある。

語彙対照表 類型 潮州語 厦門語 海南語 福州語 北京語 客家語 広東語 日本語
漢語共通 漢字 漢字 漢字 漢字 漢字 漢字 漢字 漢字
豆腐 豆腐 豆腐 豆腐 豆腐 豆腐 豆腐 豆腐
閩語共通 箸 箸 箸 箸 筷子 筷只・箸只 筷子 箸
鷄卵 鷄卵 鷄卵 鷄卵 鷄蛋・鷄子兒 鷄卵 鷄蛋・鷄春 鶏卵
潮州語独特 薏米仁・金黍米 麥穗 珍珠米 油天炮 老玉米 包粟 粟米 玉蜀黍
吊瓜 刺瓜 青瓜 菜瓜 黄瓜 黄瓜 青瓜・黄瓜 胡瓜
? 講 講 講 説 講・話 講・話 言う

同形異義
他の地域の語彙と同じ形態素を持っていながら、意味が異なる語もある。

松樹 seng5ciu7 : ガジュマル (マツは「松柏」という)
手指 ciu2zi2 : 指輪 (指は「指」という)

形容詞
中国語として、特殊な例については下記がある。

名詞の反復による形容詞
特定の単音節の名詞を繰り返す事で形容詞となっている例がある

油油 iu5iu5 : 油っぽい
水水 zui2zui2 : 水っぽい

量詞を伴った形容詞
広東語にも見られるが、量詞を含んだ形容詞が構成できる。

細細粒 soi3soi3liab8 : (粒状で)とても細かい
□ 細粒 cion3 soi3liab8 : こんなに(粒状で)細かい

接頭語
親しみを表す接頭語「阿」が多用される。すでに修飾語が着いている語にも付けられる場合がある。

阿媽 a1ma5 : ばあちゃん
阿二叔 a1ri7zeg4 : 2番目のおじさん
阿小呂 a1siao2le6 : (若い)呂ちゃん

借用語
英語からの借用語が多い他、タイに一時期住んだ元華僑がいたり、潮汕華人との交流がさかんなため、タイ語から借用している語彙もある。また、マレーシア語からの借用語もある。

潮州語の使用地域は広東省に属すため、省都の広州の広東語が潮州語に借用されている例もある。

語法
語順
基本文型
基本の語順はSVO型である。

我 食 下昼 : 私は昼飯を食べる (主語+動詞+目的語)

修飾語の位置
修飾語は被修飾語よりも前に置くが、個別の語彙においては修飾成分が後置される例もある。

慈 母 ; 慈母 (修飾語+被修飾語)
狗母 : 雌犬 (被修飾成分+修飾成分)
母姨 : 叔母 (被修飾成分+修飾成分)

比較表現
北京語とは違う語順となる。
 潮州語 : 北京語

我 高 過 伊 : 我 比 他 高 (私は彼より高い)

間接目的語の位置
北京語とは違う語順となる場合がある。
 潮州語 : 北京語


伊 抱 我 会得 起  : 他 抱 得 起 我 (彼は私を抱き上げることができる)
(北京語と同じ語順の「伊 抱 会得 起 我」とも言える)

繋辞
繋辞は、標準的な中国語同様に「是」が用いられるが、否定をする場合には否定語の「唔」と合体した「mi6」が用いられる。

我 是 学生 : 私は学生です
我 mi6(唔是) 学生 : 私は学生ではありません

補語
方向補語、可能補語、結果補語など、動詞の後に補充する成分がある点は北京語などと同じである。

行 出去 : 歩いて出て行く
食 唔落 : 呑み下せない、食欲がない

類別詞
中国語で「量詞」と呼ぶ類別詞が発達しているのは中国語共通であるが、北京語とは異なる類別詞を使うものがある。

 潮州語 : 北京語

落 loh8 : 座 zuò (棟、軒:ビル、家屋を数える場合)
放 bang3 : 陣 zhèn (雨のひとしきりを数える場合)
広東語同様に、類別詞の前に数詞を伴わず、特定化のためだけに使うことが行われる。

我 有 一 本 册 : 私は本を一冊持っている (数詞あり。「本」が量詞で「冊」が名詞と日本語とは逆)
本 册 汝 睇 了 未 : あの本は、君は読みましたか (数詞無し)

語気助詞
中国語の中では比較的豊富な文末語気助詞を持ち、30種以上が常用されている。

2009年02月06日

スタンドパラメータ

「スタンドパラメータ」とは、ファンブック「JOJO-A-GO!GO!」より設定された、スタンド能力を「破壊力」「スピード」「射程距離」「持続力」「精密動作性」「成長性」の6種類の評価基準によって評価したものである。第5部「黄金の風」に登場するスタンドからこの設定が付けられるようになり、それに伴い第3部「スターダストクルセイダース」、第4部「ダイヤモンドは砕けない」に登場したスタンドにも後付けで設定された。ただし第7部「スティール・ボール・ラン」に登場するスタンドには、今のところこの設定は存在しない。
ロマネ スラッ ピロシキ 地上SEO 舌切雀 かばいろ ルート マリーゴ ムービン ムレザー カミング モダン フェド セット ライト ヨーガ プティカル パワポ フェイ ひちく 芽ばえ ムーブ 紅い川 キワノ カルソン まだい リリース ヨーソロー ズンバ トアル ヒアシンス ザフスタン おたる あまおう ピンチ カシス ハウス ジョホール スプライ ロード スハマ キャット レディ 葦の恋 セラミック バジル ダーツ 承平上位 チムニ プラセ

評価は基本的にA(超スゴイ)、B(スゴイ)、C(人間と同じ)、D(ニガテ)、E(超ニガテ)の5段階。例外として、破壊力には「なし」、スピード、射程距離、持続力には「∞(無限大)」という評価が、成長性には「完成」という評価がある。評価できない場合は「-」と書かれ、設定されていない。

スタンド能力の優劣を判断する場合の目安の一つとなるが、『ジョジョの奇妙な冒険』においては「スタンドは適材適所」「スタンドに強いも弱いも無い」の言葉どおり、A評価が多いからといって一概にいかなる状況においても優れたスタンドであるとは定義できない。

破壊力
スタンドの単純な攻撃力、破壊力などを評価したもの。近距離パワー型や自動操縦型にこの評価が高いスタンドが多い。ただし第3、4部のスタンドは「クリーム」や「ザ・ハンド」など、絶大な攻撃力を持つにもかかわらずA評価が付けられていない場合が複数存在する(第3部にはわずかに2体、第4部でも3体しか破壊力A評価のスタンドが存在しない)一方、第5部以降はA評価のスタンドが激増した。なお、劇中でパワーが強い描写があまり見られない「エコーズACT3」や「ストーン・フリー」がA評価だったりする。ちなみに主人公のスタンドでは第5部のジョルノのスタンド「ゴールド・エクスペリエンス(C評価)」以外全てA評価である。
スピード
スタンドがどの程度機敏に行動できるかを評価したもの。近距離パワー型や自動操縦型にこの評価が高いスタンドが多い。
スピードとはいっても近距離型はほとんど移動できないし、遠距離型はスピードを欠くため、高速移動できるスタンドはほとんどいない。どちらかというとラッシュの速さなどに反映される能力。
主人公のスタンドでは第6部の徐倫のスタンド「ストーン・フリー」以外全てA評価である。
射程距離
スタンドが本体からどの程度離れることができるか、またはスタンドの攻撃範囲を評価したもの。破壊力が低評価のスタンドや自動操縦型にこの評価が高いスタンドが多い。具体的な数値としては、A評価の「エコーズACT1」が50m以上、C評価の「エコーズACT3」が5mというのが作中に登場する。主人公のスタンドは全て低評価。
持続力
どの程度長時間スタンド能力を発動、維持できるかを評価したもの。
精密動作性
スタンドにどの程度緻密な行動を行わせることができるかを示したもの。つまり評価が低いほど大雑把な動作しかできないが、この評価が低いものには無差別攻撃を行う凶悪な性質を持つものも多々存在する。一方この評価がAで破壊力もA評価というスタンドは「スタープラチナ」しか存在しない。
成長性
後どの程度スタンド能力が成長する可能性が残されているかを示したもの。生まれたてのスタンドや、本体が強い向上心を持つ場合に高評価が与えられている。成長しきった場合には「完成」の評価が付く。主人公のスタンドでは第4部の東方仗助の「クレイジー・ダイヤモンド(C評価)」を除いて全てA評価である。なお、「スタープラチナ」は第3部ではA評価、第6部ではE(完成)の評価が与えられている。例外的に「グリーンデイ」や「ノトーリアス・BIG」のような能力が無制限に増長していくタイプなどもその性質を反映してA評価になることがあるがいずれも特殊なケースである。

各部ごとのスタンド一覧
下記の一覧は、作中に登場する全てのスタンドを記述した。存在が指摘されながらも、作中に登場しないスタンド(虹村の父やソルベ、ジェラートなど)に関しては記述していない。さらに、能力名かスタンド名かはっきりしないもの(スタープラチナ・ザ・ワールド、エピタフなど)も省いた。スタンド能力かどうかはっきりしていないもの(アース・ウインド・アンド・ファイヤーなど)は区別せずそのまま載せた。

なお、スタンド名に読み仮名が必要なものは、括弧内に記した。また、スタンドに表記ゆれが存在するものに関しても、括弧内に記してある。但し、本体の表記揺れは省いた上、全ての読み仮名や、表記ゆれを網羅しているわけではないので、注意が必要である。

基本的にはスタンド名順(五十音順)に並べ、スタンド名が不明なものは最後尾に回した上で本体名順で並べている。一つのスタンドに複数の本体(スタンド使い)が存在したものについては、上から下に本体になった順に並べてある。また逆に一人のスタンド使いが能力の成長などで複数のスタンドを持ったとされるケースでは、能力的特長や名前からして関連が深いと思われるものは上から下にその能力を身につけた順に並べ、関連性が薄い物は別個のものとして扱っている。

本体名に関しては、後から判明したものを除き詳しく記述していないので、それぞれの作品内にある登場人物紹介を参照のこと。

Part3 スターダストクルセイダースのスタンド
スタンド個々の詳細は、スターダストクルセイダースを参照のこと。名前の由来については下記の3種類が存在する。

タロットカードのスタンド
タロットの大アルカナに由来するスタンド名。作者曰く「敵味方合わせて22人(タロットカードの枚数)ぐらいで終わるだろうと思って描き始めた」とのこと。
エジプト9栄神のスタンド
エジプト神話の9栄神に由来するスタンド名(エジプト九柱神がモデルだと思われるが、一部の神が異なる。なお、実際には「エジプト9栄神」なる分類のカードは存在せず、漫画オリジナルの設定である)。余談だが原作でも「エジプト9柱神」と誤植をしている箇所があった。
その他のスタンド
タロットカード、エジプト9栄神のいずれにもよらないスタンド。もしくは無名。名前があるスタンドは画集『JoJo6251 [荒木飛呂彦の世界]』での後付けである。

2009年01月22日

済南事件(さいなんじけん)

済南事件(さいなんじけん)は1928年(昭和3)5月3日、中国山東省の済南で、日本の権益確保と日本人居留民保護のため派遣された日本軍(第二次山東出兵)と北伐中であった蒋介石率いる国民革命軍(南軍)との間に起きた武力衝突事件。

事件の中で、日本人居留民12名が殺害され、日本側の「膺懲」気運が高まった。一方、日本軍により旧山東交渉公署の蔡特派交渉員以下16名が殺害されたが、中国側はこれを重く見て、日本軍の「無抵抗の外交官殺害」を強く非難した。さらにこれを機に、日本軍は増派(第三次山東出兵)を決定した。

衝突はいったん収まったものの、5月8日、軍事当局間の交渉が決裂。日本軍は攻撃を開始、5月11日、済南を占領した。中国側によれば、その際、中国軍民に数千人の死者が出たとされる。

当時、中国は南軍と北軍に別れて内戦状態にあり、治安は悪化していたが、済南は主要な商業都市であり、日本人を中心として多くの外国人が居住していた。この内戦の中で、同年5月1日、済南は北軍の手から南軍の手に落ちた。

日本側は居留民保護を理由として同年4月下旬に出兵し(第二次山東出兵)、戦いが城外の商埠地[1]に波及することを防ぐために警備区域(バリケード)を築いていたが、南軍の総司令蒋介石から治安は中国軍によって確保することを保障するので日本軍は撤去して欲しいとの要望がなされ、日本軍は警備区域を撤廃した。

事件の発端
事件の発端については、日本側資料と中国側資料で見解が異なり、現状ではどれが正しいか不明とされている。

日本側の見解(『昭和三年支那事変出兵史』)
南軍の兵士が満州日報取次販売店の吉房長平方を掠奪、主人を暴行した。日本軍が現場に赴くと掠奪兵はただちに自分の兵舎へ逃走。それを追った日本軍に対して歩哨が射撃してきたので日本軍は応戦し、歩哨を射殺。それをきっかけに戦闘となり、全商埠地内に波及した。
中国側の見解(『蒋介石秘録』)
病気となった兵士を中華民国外交部山東交渉署の向かいにあるキリスト教病院(城外商埠地)に治療に連れていったところ、日本兵に通行を阻止された。言葉が通じないままに言い争いとなったが、日本兵は、革命軍の兵士と人夫それぞれ一人をその場で射殺した。
なお、中国側資料には、以下のような説もある。(『五三惨案』より)

中国軍兵士が日本軍兵士と口論となり、衝突となった
中国軍兵士が国民政府の貨幣で買い物をしようとし、日本人に阻止された
民衆が宣伝ポスターを見ていたとき、日本軍がそれを許さず、民衆と衝突した
中国軍兵士が商埠地を通過していることろを日本軍に阻止された

被害状況
日本側の参謀本部が編纂した『昭和三年支那事変出兵史』によれば、被害人員約400、被害見積額は当時の金額で35万9千円に達したという。日本人居留民の被害、死者12、負傷後死亡した男性2、暴行侮辱を受けたもの30余、陵辱2、掠奪被害戸数136戸、被害人員約400、生活の根柢を覆されたもの約280、との記録が残っている。なお、日本軍の損害は、死者26名、負傷者157名。 なお、居留民の虐殺については、「(犠牲者の)多くがモヒ・ヘロインの密売者であり、惨殺は土民の手で行われたものと思われる節が多かった」(佐々木到一少将、「ある軍人の自伝」)との見方もある。

中国側の資料によれば、中国側の被害は、軍・民あわせて、死者は「中国側済南事件調査代表団」の報告では「約3,000人」、「済南惨案被害者家族連合会」の調査では「6,123人」。負傷者数は「中国側済南事件調査代表団」では「1,450名」、「済南惨案被害者家族連合会」では「1,701名」とされている

事件の影響
その後軍事当局間の交渉から、外交交渉を経て、1929年3月28日、日本軍は山東から撤退すること、双方の損害は共同で調査委員会を組織して改めて調査すること、を骨子とした協定が締結された。中国国内からは、外交官殺害事件が不問に付されたこと、損害賠償も事実上棚上げとなったことから、この協定への非難の声も聞かれ、反日機運が一層高まる一つの契機となった。
すぎやま バイオ ファイト チグラフィ 寛和 トリタン ビストロ クウェート スペシャル トップス スラバ フェン サイネ 赤ひげ ピペット スクワレ ミイアエラ スイッチ ソース ルーター シティー ハイオネロ メキシコ メグマ オルゴール フーファ タンデム フェース 冬の南風 セイフ バイポ ブラウニー フランネ スマス ギャンブル おーたむ バース 古都の ケワキ ルーイク レット リングアウ ド小法師 ズンイン レングス バック テクニ スラブ 見返り NO1ラン

関連文献

単行本
朝日ジャーナル編『昭和史の瞬間 上』(朝日新聞社[朝日選書]、1974年5月)、44-52頁、55頁
中村粲『大東亜戦争への道』(展転社、1990年12月、ISBN 4886560628)
佐藤元英『近代日本の外交と軍事――権益擁護と侵略の構造』(吉川弘文館、2000年2月、ISBN 4642036938)、51-71頁
秦郁彦・佐瀬昌盛・常石敬一監修『世界戦争犯罪事典』(文藝春秋、2002年8月、ISBN 4163585605)、61-63頁

論文・記事
邵建国「済南事件の再検討」『九州史学(九州大学)』93号(1988年9月)、59-81頁
重光葵「済南事件解決」『中国研究月報』42巻10号(通号488号、1988年10月)、中国研究所、41-46頁
邵建国「『済南事件』交渉と蒋介石」日本国際政治学会編『国際政治』104号(1993年10月)、168-182頁
服部龍二「済南事件の経緯と原因」軍事史学会編『軍事史学』134号(1998年9月)、19-30頁
富永正三「済南事件の歴史的意義」『季刊中帰連』10号(1999年9月)、15-21頁
馬節松(山辺悠喜子訳)「『五・三惨案(済南事件)』を語る」『季刊中帰連』10号(1999年9月)、22-27頁
李家振(山辺悠喜子訳)「済南惨案の再検証、『済南惨案』の七〇周年に際して」『季刊中帰連』10号(1999年9月)、28-35頁
邵建国「『済南事件』をめぐる中日外交交渉」『名古屋商科大学商学部論集』第44巻第2号(2000年3月)、145-156頁
高文勝「済南事件の解決交渉と王正延」『情報文化研究(名古屋大学)』第16号(2002年10月)、163-188頁

2009年01月15日

代謝拮抗剤

ジーセ ヨガア シチュー タン総合 ハニート マイペー ブラカップ ローラー 冬の花火 マンダ ヤーン パンチカド オーバル クロマ 海眺望 トルエ ナンプラー シーオーイ インター ケット モブシ 京野 リンケ オーディ ユニコー オプテ クローザー ハーバ ナイタ スカップ パラド ショコラ ショート サイクリ ナサ ブルー ハロウィン ナックル 湾岸道路 ユンド ロールカ ロイシン テアフ ライフ プライス パワー センサス セオドラ ソフト ミラノ

代謝拮抗剤 (anti-metabolites) はDNAの構成要素のプリンやピリミジンのイミテーションであり、(細胞周期の)S期にDNAへのプリンやピリミジンの取り込みを防止する。それにより、正常な増殖や分裂は停止する。重要な代謝拮抗剤の代表として5-フルオロウラシル (5-FU) が挙げられる。

葉酸代謝拮抗薬
葉酸は1炭素単位の移動(C1代謝という人もいる)を含む多くの酵素反応に関与するビタミンである。これらの反応はDNAとRNAの前駆体、グリシン、メチオニン、グルタミン酸といったアミノ酸、ホルミルメチオニンtRNAや他の重要な代謝産物の生合成に重要な反応である。植物は自ら生合成するが人は生合成することができず経口摂取する。しかし、DHF、THF、MTHFの変換といった代謝は行われているのでその部位をターゲットとした場合、葉酸代謝阻害薬でヒト細胞も傷害できる。

ジヒドロプテロイン酸シンターゼ阻害薬
これは葉酸の生合成経路の阻害であるので細菌に対して選択毒性をもつ。抗腫瘍薬では用いることはない。ST合剤に含まれるサルファ剤がこれにあたる。スルホンアミド系薬物とスルホン系薬物というものに分類されることが多い。スルホンアミド系薬物としてはスルファジアジンとスルファメトキサゾールがあげられる。スルファメトキゾールはバクタやバクトラミンにも含まれている。スルホンアミド系薬物は血清アルブミンとの結合部位をめぐりビリルビンと競合するので新生児黄疸の原因となる。スルホン系薬物にはジアフェニルスルホンなどがありハンセン病の治療に適応があるが、約5%の患者で投与後にメトヘモグロビン血症をおこすので使いにくく、あまり馴染みがない。
ジヒドロ葉酸レダクターゼ阻害薬(DHFR阻害薬)
これは抗菌薬としても抗腫瘍薬としても免疫抑制薬としても用いられることがある薬である。メソトレキセート(MTX)、トリメトプリム、ピリメタミンという3つの薬が重要である。トリメトプリムはバクタやバクトラミンといったST合剤に含まれている抗菌薬である。尿中にそのままの形で排出されることから尿路感染症の治療で使いやすい。ピリメタシンは抗寄生虫薬として使われることが多く、何といってもトキソプラズマ症に効果的な唯一の治療薬である。スルファジアジンとの併用でシナジーを得るので非常に良い治療ができるのだが残念ながら日本ではスルファジアジンが適応外である。ピリメタシン自体でもマラリアに対して有効であるが近年耐性が問題となっている。さて、ここで気がつくのだがトリメトプリム、ピリメタシンは抗腫瘍薬としては全く用いられない。DHFR阻害薬はテトラヒドロ葉酸の細胞内供給を決定的に不足させ、結果的にプリンとチミジンの新たな合成停止させることによってDNA合成とRNA合成を阻害する。DNA合成が停止するため細胞はS期で停止させられる。この理屈ではバクタ投与ではもっと激しい副作用が出てもよさそうである。しかしそれが出ない。サンフォードではUTIの第一選択はST合剤となっているほど安全な薬物である。実は細菌、原虫、ヒトではDHFRのアイソフォームが異なるため選択毒性が働いているのである。メソトレキセートはアイソフォームに関係なく阻害する。癌細胞の方が分裂回数が多いから選択毒性になるとかつては考えられたが、S期に止まるだけなら大した効果はあがらないはずである。現在ではメソトレキセート投与は腫瘍細胞をアポトーシスに導き、正常細胞をアポトーシスに導かないということが選択毒性となっていると考えられている。即ち、p53やBcl-2のようなアポトーシス制御蛋白に変異があるとメソトレキセート耐性となってしまうのである。もちろん、分裂回数はある程度の関係はしていて消化管粘膜や骨髄抑制は出現する。HD-MTX療法はフォリン酸救援療法によって普及した。機序は不明な点が多いがメソトレキセート投与後数時間後にフォリン酸(ロイコボリン)を投与することで正常細胞を救援することができる。HD-MTXの投与量はファリン酸救援療法を行わければ致死的であるので注意が必要である。メソトレキセート、シタラビンと同様BBBを透過性のある数少ない薬物の一つである。中枢神経DLBCLにおいては非常に頼りになる。血液疾患の他には乳癌、肺癌、頭頸部癌、絨毛癌にも適応がある。葉酸は胎児細胞の適切な分化と神経管の閉鎖のために重要であるため胎児への投与は禁忌である。近年はメソトレキセート単剤、もしくはプロスタグランジン類似物質のミソプロストールとの併用で妊娠中絶薬として臨床試験が行われている。

ピリミジン代謝阻害薬
チミジル酸シンターゼ阻害薬
これはフルオロウラシル(5-FU)とフロロピリジン系抗真菌薬であるフルシトシン(5-FC、アンコチル)が含まれる。フルオロウラシルは乳癌や消化管の癌、皮膚の前悪性角化症や表皮の多発性基底細胞癌でよく用いられる。白坂哲彦が開発した日本が誇るべき抗腫瘍薬TS-1もフルオロウラシルのプロドラッグである。臨床試験によりフルオロウラシルとフォリン酸(ロイコボリン)の併用がフルオロウラシル単独よりも効果が高いことが明らかになり、それを応用した大腸癌のレジメがFOLFOXである。FOLはフォリン酸(LV、ロイコボリン)、Fはフルオロウラシル、OXはオキサリプラチン(L-OHP、エルプラット)である。有名な方法としてはFOLFOX4とそれの投与方法を簡略化したFOLFOX6がある。FOLFOX6でオキサリプラチンの代わりにイリノテカン(CPT-11、カンプト)を用いるようにしたのがFOLFIRIである。欧米では中心静脈リザーバーを用いて外来治療で行うのが通常だが、日本では入院して行う。日本では承認の問題でフォリン酸(LV)の代わりにレボホリナート(l-LV、アイソボリン)という光学異性体を用いる。近年はVEGFに対するモノクローナル抗体であるベバシツマブ(アバスチン)を併用することもある。フルシトシンは真菌内でフルオロウラシルに変換され、動物内で変換されないことから抗真菌薬として用いられることがあるが、耐性化しやすく単剤で使われることはまれである。髄液移行性がよく、アムホテリシンB(ファンギゾン)とシナジーがあるため、クリプトコッカス髄膜炎では併用することはある。

プリン代謝阻害薬
IMPDH阻害薬
6-メルカプトプリン(6-MP、ロイケリン)とそのプロドラッグであるアザチオプリン(AZA、イムラン)が知られている。6-メルカプトプリンはAPLの維持療法やALLの強化療法、維持療法で用いることがある。アロプリノールとの併用で作用、副作用とも増加することが有名である。免疫抑制薬としての適応も有名である。特にアザチオプリン自己免疫性疾患ではよくつかわれる。
アデノシンデアミナーゼ(ADA)阻害薬
ペントスタチン(コホリン)が知られている。ATLや有毛細胞白血病で用いられることがある。