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新政府側の強硬論と寛典論

新政府側でも徳川家(特に前将軍慶喜)に対して厳しい処分を断行すべきとする強硬論と、長引く内紛や過酷な処分は国益に反するとして穏当な処分で済ませようとする寛典論の両論が存在した。薩摩藩の西郷隆盛などは強硬論であり、大久保利通宛ての書状などで慶喜の切腹を断固求める旨を訴えていた[8]。大久保も同様に慶喜が謹慎したくらいで赦すのはもってのほかであると考えていた節が見られる[9]。このように、東征軍の目的は単に江戸城の奪取のみに留まらず、徳川慶喜(およびそれに加担した松平容保・松平定敬)への処罰、および徳川家の存廃と常にセットとして語られるべき問題であった。

一方、長州藩の木戸孝允・広沢真臣らは徳川慶喜個人に対しては寛典論を想定していた。また公議政体派の山内容堂・松平春嶽・伊達宗城(前宇和島藩主)ら諸侯も、心情的にまだ慶喜への親近感もあり、慶喜の死罪および徳川家改易などの厳罰には反対していた。
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新政府はすでに東海道・東山道・北陸道の三道から江戸を攻撃すべく、正月5日には橋本実梁を東海道鎮撫総督に、同9日には岩倉具定を東山道鎮撫総督に、高倉永祜を北陸道鎮撫総督に任命して出撃させていたが、2月6日天皇親征の方針が決まると、それまでの東海道・東山道・北陸道鎮撫総督は先鋒総督兼鎮撫使に改称された。2月9日には有栖川宮熾仁親王が東征大総督に任命される。先の鎮撫使はすべて大総督府の下に組み入れられた上、東征大総督には江戸城・徳川家の件のみならず東日本に関わる裁量のほぼ全権が与えられた。東征大総督府参謀には、正親町公董・西四辻公業(公家)・広沢真臣(長州)が任じられたが、寛典論の広沢は12日に辞退し、代わって14日強硬派の西郷隆盛(薩摩)と林通顕(宇和島)が補任された。2月15日、東征大総督は京都を進発して東下を開始し、3月5日には駿府に到着。翌日には江戸城総攻撃の日付が3月15日と決定された。

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2009年05月30日 13:23に投稿されたエントリーのページです。

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